「安保保障関連法案に反対する学生と学者の共同行動」での発言

2015年7月31日、東京砂防会館にて、「安全保障関連法案に反対する学生と学者の共同行動」集会にて、代表の岡野八代が以下のようなスピーチを行いましたので、ご報告します。

原文pdf はこちらからどうぞ → 20150731砂防会館 

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いま、民主主義が悲鳴をあげています。日本の民主主義は、怒号にまみれています。しかしいま、こうしてみなさんとご一緒していることが示しているように、日本中で、新しい、次世代の、未来を予感させる民主主義の産声も、わたしたちは聞いています。

SEALD’s はじめ、多くの学生、若いお母さんと子どもたち、労働者、これまでずっと9条を守砂防会館れと唱えていた人たち、原発再稼動をとめようとしている人びと、沖縄で座り込みをしているひと、平和な生活をずっと求めてきたひと、そして戦争を体験したひと、宗教者や研究者たち。これまでの無関心や諦めなどを吹き飛ばすように、本当にいろいろな立場のひとが、いま、戦後の民主主義の根幹を守るために、立ち上がり、声を挙げ、安保関連法案を絶対に止める、わたしたちの手で止めると、全国各地で毎日のように行動しています。

わたしの専門とする政治思想史を少し振り返れば、民主主義democracyとは、政治politicsという言葉が生まれたと同時に生まれた、政治学の用語のなかでも、もっとも古い概念の一つです。そして、政治学上、これ以上に毀誉褒貶にまみれた概念はないといえます。それどころか、18世紀のフランス革命以後でさえ、多くの哲学者や政治学者は、民主主義に対して、不信感と侮蔑感、そして恐怖心さえ抱いてきました。

その理由は二つほどあると思います。ひとつは、民主主義の主人公である、民衆への恐怖心と軽蔑。二つ目は、民主主義は最悪の政治へと堕落する一歩手前であるという、伝統的な考え方です。だからこそ、民主主義が堕落しないために、批判精神をもった市民を育むための教育や、表現の自由や結社の自由、そして、市民の不満や社会の不正義をしっかりと伝える報道の自由が、民主主義に不可欠な機能として確立してきました。

いうまでもなく安倍晋三という政治家はこれまで、こうした民主主義の砦ともいえる、教育や報道の自由を崩壊させようとしてきました。そしていま、普遍的な人権に根ざした憲法を、つまり、民主主義の根幹を蝕もうとしています。

SEALD’s のみなさんのコールのなかで、わたしたちは何度も「民主主義ってなんだ!」という訴えを聞きました。これまで、民主主義という言葉が、これほど社会にこだましたことがあるでしょうか?〈わたしたちの声を聞け〉、〈お前たちはわたしたちの代表じゃないのか〉、という訴えは、民主主義を堕落させてしまわないための、市民にとって不可欠な訴えです。

わたしたち市民は、国家の下で生きる限り、だれもが例外なく法律にしたがって生きていかなければなりません。この法律はときに罰則さえ科せられる強制的な法で、その外部に逃れようとするならば、国外逃亡するくらいしか道がありません。生まれたら名前とともに役所に届けられ、最後には死亡届をだすといったように、わたしたちの一生は、法に従う一生だともいえます。自由であるはずのひとが、なぜこんな強制法の下でいきているにもかかわらず、自由だといえるのでしょうか?

わたしは、近代民主主義の発明の核心は、ここにあると考えています。「民主主義ってなんだ!」という答えの一つは、「〈わたしが創った法にしか、わたしは従わなくてよい〉しくみ」です。

〈わたし〉が創った法にしか従わないのだから、わたしは法の下でも自由でありうる。もっといえば、自由であるためには、自分自身で法を発見し、その法に従わなければならないのです。

これが、人民主権の大原則であり、ひとりの自由と他者の自由が平和のうちに共存できるための、人類が産みだした英知です。

ここに、立憲主義と民主主義がむすびつきます。自分で発見した法に従うことが自由であるならば、他者も同じように自由であるためには、その法は、誰もが納得でき、誰も排除しない法を見つけ出す必要があります。つまり、普遍的な人権に基づく法の発見です。したがって、現在の日本国憲法は、その前文において「政治道徳の法則は、普遍的なものである」と主張するのです。

「民主主義ってなんだ!」、それは、わたしがわたしであるための、あなたがあなたであるための、人類が長い時間をかけて作り上げた政治システムです。民主主義を破壊するものは、他の誰でもないわたしを破壊する。民主主義をかけた闘いは、わたしを賭けた闘いでもあるのです。

今日もまた、〈民主主義ってなんだ!〉のコールをみなで唱えましょう。