SEALD’s 国会前デモでのスピーチ 2015年7月10日

京都96条の会代表岡野が、「安保関連法案に反対する学者の会」呼びかけ人として参加した、SEALD’s の国会前デモにおけるスピーチの内容です。(当日は準備した下記の原稿を読んで話していませんので、若干内容が異なります)

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みなさん今晩は。京都から参りました、岡野八代と申します。わたしは、安倍晋三氏が2012年の自民党総裁選から掲げ始めた、憲法第96条先行改憲案という考えに反対し、それ以降、京都で京都96条の会を主催してきました。大変小さな会ですが、二月に一度ほど、市民の方々と憲法の歴史、意義、そして立憲主義について考える会を開催しています。そのさい、どうやって多くの市民の方に関心をもってもらうか、これまで憲法について関心のない層にどのように訴えるのかが大きな悩みでした。その意味で、こうして多くの人に訴えかけ、魅力あるデモを始め、運動を広げているSEALD’s のみなさんには、心より

敬意と連帯の気持ちをお伝えしたいと思います。また、関西からも多くの方からエールを言付かってきました。わたしもみなさんの運動から、多くの力と励ましを受けているように感じています。

こうした多くの市民が反対し、不安に思い、立ち上がっているにもかかわらず、安倍内閣は、明らかに違憲の戦争法案を通そうとしています。国会議員の数、そして80時間という審議の時間をもって、審議は尽くされた言い放ちます。

内容を伴わない、本質を問うことなく、数や時間といた量の多さで法律を、しかも違憲の法律を通そうとする安倍政権のやり方こそが、かれらが立憲主義とはなにかを理解していないことを明らかにしています。立憲主義が守ろうとしているものはなにか、立憲主義の価値とはなにか。それは、わたしたち一人ひとりに備わった尊厳、憲法13条で最大限保障されている、個人の価値、自由、そして幸せを夢見て追求する権利です。それは、数の力はいうまでもなく、誰も侵しえない、究極の価値です。ですから、立憲主義の下では、個人の尊厳を守るためにこそ、国家は存在しています。決してその逆、つまり国家のために個人があるのではありません。

わたしは、現在立憲主義を破壊するために提出された法案が、戦争法案であることには、一種の必然性があると考えています。つまり、戦争を準備する国は、そもそも立憲主義には相容れないと考えているからです。戦争する国は、立憲主義を必ず破壊する。そのことを考えるために、一つだけ具体的な話をさせてください。

わたしは、2002年の9.11 同時多発テロ以後、1年たった、アメリカ、ワールドトレードセンターのあったマンハッタンに1年半滞在していました。当時、アフガニスタン攻撃を始めたブッシュ政権にマンハッタンの市民の多くは反対し、今日のわたしたちのように、デモを行っていました。わたしは、take back the future 「未来を取戻せ!」という女性たちが中心となって立ち上げたグループのなかで、反戦デモに参加していました。なぜ、9.11同時多発テロの被害にあったマンハッタンの市民は、ブッシュ政権の武力行使に反対していたのでしょうか?その理由は、三つあります。第一に、テロ行為の後の悲しみ、恐怖、そしてなにより、再びテロが起こるのではないかといった不安を武力行使はまったく解消してくれなかったからです。第二に、これはわたしも日々実感しましたが、アメリカの武力攻撃は、テロが再び起きる可能性を減らすことがないどころか、むしろテロの可能性を高めたからです。当時毎日のようにテレビでテロ危険アラームが表示され、アメリカが武力行使すると決まると、黄色から、オレンジ、ときに最高の危険度示す赤へとアラームが変わりました。武力行使は、決して市民の安全を守れないのです。

最後に、戦争をする国は、憲法、とくに国民の権利を定めた、アメリカでは、Bill of Rights と呼ばれていますが、憲法上の国民の権利を侵害するからです。わたしが参加していたtake back the future では、このBill of Rights 「権利の章典」を守れ、というのが一つの大きなスローガンでした。

ところが、ブッシュ政権は、こうした市民たちの反対の声にもかかわらず、2003年3月にイラクに対して宣戦布告をします。大量破壊をフセイン政権は開発しているという、21世紀最大のでっちあげだとわたしは考えていますが、同時多発テロとはなんの関係もない、イラクに戦争をしかけたのです。そして、戦争が始まると、いっきに反対する市民の声はメディアからもなくなり、社会的な自粛がアメリカを覆い始めます。このときのアメリカメディアの自粛、それは、どこかの文化人を呼んだ最近の勉強会で政治家が発言したように、スポンサーがなくなる恐怖から、メディアは自主規制をし始めます。

この自粛の圧力を生んだのは、戦争遂行中に戦争を批判する者は、戦争の犠牲となった英雄である兵士を貶めている、という主張です。つまり、国のために命を賭け、実際に命を落とす兵士を侮蔑することは許されない、という認識が広がりました。戦争で国のために犠牲になる兵士がでれば、犠牲を強いてる戦争じたいも批判できなくなるのです。いま、安倍政権は、自衛官のリスクについてしぶしぶ認めるような態度をとっていますが、かれらはむしろ、国のために命を捨てる国民を欲しているのだとわたしが考えています。ですから、安倍は靖国神社の参拝も欠かせません。戦争による犠牲者を英雄視する行為は、戦争に対する批判を封殺することができるからです。そして、国のために犠牲になる国民、国家のために存在する国民という、立憲主義をさかさまにしたような国家主義がそこに完成します。じっさい安倍晋三は、アメリカと同等なパートナーシップを結ぶためには、日本人も血を流す必要があると、著書では語っています。

国家は、個人の尊厳を守るためにこそ存在しています。国家のためにわたしたちは、生きているのではありません。立憲主義を手放さない、つまり、戦争も許さない、そして、わたしたちは安倍政権を許さない。この一点で、今後もさらに強力な声を挙げていきましょう。